娘を乳児院へ預けた日
それはショートステイを終えた翌日のことでした。
産院から自宅に戻った夜、娘をずっと夫に見てもらい、私は2人と別室で過ごしました。
翌日、在宅ワークで自宅で仕事をしている夫の手を止めてはいけないと、搾りかすほども残っていない気力を奮い立たせながら、娘へ触れることを試みます。
いつ泣き出すのかわからない娘、夫に仕事を中断させることの罪悪感、なにもできずに存在している自分への憤りと、張り詰めた空気。
その緊張に耐えられなくなり、私は、泣いている娘を抱きあげようとして過呼吸をおこします。
「………娘を預けたい。」
どっちにしても苦しいなら、もう、楽になろう。
私は自分の意志で、娘と離れることを決めました。
夫は「娘が泣くのは俺は苦しくないんだよ。俺は、ちゃーこが泣きながら娘に触れているのを見るのが辛いから、離れて楽になるのならそうしよう。娘と離れるのは寂しいよ。でも、大丈夫。すぐに迎えに行けるし、きっと、いつか、預けてよかったと思える日がくるから。」と言い、保健師さんへ連絡をしてくれました。
その日のうちに、娘を受け入れてくれる手配が整います。
せめても、と、私は娘に産院から退院するときに1回だけ着せたセレモニードレスを着せて、夫と一緒に指定された乳児院へ向かいました。
乳児院と児童相談所
乳児院へ到着すると、乳児院の職員の方と児童相談所の職員の方が出迎えてくれました。
そして、娘とはここで離れ離れになります。
1か月検診の時におむつかぶれが酷くて、塗り薬をもらっていました。預かるにあたり注意することはないか、と問われたので、コンタクトケースのような入れ物に入った軟膏を渡し、塗ってほしいと頼みます。
成分表示や薬の名前がないから、乳児院では塗ることができない、と返されてしまいましたが、娘のおむつかぶれはやはり対応が必要だったようで、乳児院の職員の方がすぐに病院へ連れて行ってくれることになりました。
面談の際、「出来る限りはやく病気を治して、娘と一緒に暮らせるようになりたい。」ということを職員さんへ伝え、「コロナで面会ができないなら娘の写真を撮っておいてほしい。」とお願いしました。
児童相談所の職員の方からは、「私たち、児童相談所は世間的にはあまりいいイメージがないかもしれませんが、あくまでも私たちは相談所です。悩んでいる方に解決の糸口を探すのが役目です。お母さん、頑張ったね。よく、決断したね。」と言われたのを覚えています。
今後、娘の様子を確認したり、なにか連絡事項があった際は、乳児院へ直接連絡するのではなく、すべて児童相談所経由となる説明を受けました。
乳児院を後にし、本当にこれでよかったのかわかりませんでした。
精神科への通院が開始
家に帰った私は、なにかをする気力はまったくおきず、最後に見た娘の顔を思い浮かべては、乳児院に預けたことが間違っていなかったのか、自問自答を繰り返し、ひたすら鬱々と過ごします。
夫は、娘が自宅にいないので、仕事に出かけていきました。
乳児院に預けた直後、保健師さんから精神科の予約が取れたと連絡がきます。精神科の初めての受診は、娘と離れて3日後に決まりました。
紹介状と母乳相談
精神科へ通うため、産院に状会状を取りに行った際に、母乳の相談をしたい、と申し出ました。いつ娘が帰ってきてくれるかわからないけど、おっぱいを欲しがった時に、あげられるようにしておきたい、という思いからです。
担当してくれた助産師さんに伝えると、「母乳はあげないと徐々に量が減っていくから、難しいかもしれないね。ただ、おっぱいが詰まって乳腺炎になってしまわないように、搾乳はしっかりしておこうね。」とアドバイスされます。
「何も…何も上手くできなかったのに、母乳まで止まってしまうんですか…?」そう言いながら、泣き出してしまった私を、助産師さんはしっかり抱きしめながら、「母乳をあげることだけが、お母さんの仕事じゃない。あなたはこの1か月間、1日1日、命を繋いできたの。それだけでいいの。全部できてるの。」そう、言ってくれました。
この言葉に、私は心底救われました。
命を繋ぐ、それだけでいいんです。泣く理由がわからなくてもいい。家事がおろそかになってもいい。完全じゃなくてもいい。なにも出来なくても、私は子どもをしっかり守ってきた。それだけで十分なんです。
自分と向き合う時間
精神科の通院日までの間に、自分のこれまでを振り返ってみました。
自分で言うのもなんですが、そこそこ恵まれない家庭環境で育ちます。家族構成は、私、祖父母、母、弟、物心ついたときには父親はいませんでした。父親のDVと浮気で離婚したと聞いています。母親は精神疾患を患い、入退院を繰り返していました。
祖父母と一緒に暮らしていましたが、生活はギリギリです。祖母はカルト宗教の信者で、少ない生活費をつぎ込み、祖父と喧嘩に…。細かいところはあげればキリがないのですが、ざっとこんな感じでした。
幼少期の私は、母親にしてもらえなかったことが多かったため、自分の子どもを授かった時から、「子どもの頃に思い描いた理想の母親になろう。」、「子どもの望みはすべて叶えてあげよう。」、「母親になったら、子どものために生きよう。」、そして、「私と同じような目には絶対に合わせないし、合わせたくない。」と非常に強く思うようになります。
娘が産まれて、身体的な問題があったり、家事・育児が思うようにできないことに躓き、もともとの性質として持ち合わせている、自己肯定感が非常に低いことと、完璧主義な部分も相まって、自分のことを強く追い詰めたんだ、と、自己分析しました。
仕事から帰ってきた夫にそれらを話すと、今言ったことをそのまま精神科の先生に伝えるよう言われます。
「きっと、大丈夫。」
原因に気づいたような気がした私は、早く娘を迎えたいと焦るようになります。
精神科の受診
保健師さんも同伴で、初めて精神科へ。
同性の方が気兼ねなく相談できるだろうと、女性の先生を予約してくれていました。
まず、初診だからということで、カウンセラーのような人に(ハッキリ職種を覚えていません。)家族構成やこれまでの自分の人生について聞かれます。答えたくないことは答えなくてもいいと言われたのですが、特段、答えに詰まるようなことは聞かれませんでした。
しばらく待った後、先に夫と保健師さんが診察室に呼ばれ、そのあと、私が呼ばれます。
私は、夫に話した自分で分析した「産後うつの要因」を先生にそのまま話して、「もう大丈夫だから、すぐにでも娘と一緒に暮らしたい。」、「そして薬は母乳に影響するから飲みたくない。」と希望を伝えました。
先生は「そこまでわかっているなら大丈夫、お薬は今回は出しません。だけど、一度壊れてしまった心と体を回復するのはとても時間がかかるし、また、波が来てしまうかもしれないから、焦らない方がいいですよ。」と言われ診察は終了。2週間後に受診の予約をして帰路につきます。
保健師さんは、私の気持ちが落ち着いていることにビックリしていました。たった短期間で見違えるほど回復したという印象だったようです。
2週間、心はひたすらにグルグルしていました。
「娘に会いたい、抱きしめたい。でも、私に育てられるより、乳児院にいた方がいい環境なのではないか、もしかしたら、また、ダメになってしまうかもしれない…。」
夫はひたすら家に閉じこもる私を見て、気晴らしに外出をしようと、海に連れて行ってくれました。夫と、私とお腹にいる娘と3人で、マタニティフォトを撮った海です。
海を眺めていると、自分の悩みがちっぽけに思えるので、昔から海が好きです。昼は日差しが反射してキラキラ海面が揺れて、日が落ちてくれば焼けていく赤に見惚れ、深い夜には星が空を彩り、そのどれもが美しいのです。
しばらく海を眺めながら、私は、「できない自分を認めてみよう。」と思えるようになりました。
娘を再び迎え入れる準備
どうすれば、先生は私が娘を育てていけると判断してくれるだろう。私は、もう大丈夫だから、次の通院日には娘を迎え入れる許可が欲しい…。
2週間経過した精神科への通院で、私は「もう大丈夫だから、娘と暮らしたい。」と、強く伝えます。
夫にも最近の私の様子を確認した先生は、「わかりました、一緒に暮らして様子を見てみましょう。ただし、無理はしないこと。」と、不安はあるけれど面会すらコロナの影響で叶わない状況も踏まえて、娘を引き取る許可を出してくれました。
早速、保健師さんと児童相談所の職員の方に連絡を入れます。
保健師さんからはそのタイミングで、養育支援員さん(子育てOB)の担当の方が決まったことを伝えられます。曜日ごとに交代で2人、1日2時間来てくれることになりました。
児童相談所へも経過を連絡。しばらく待った後、娘を3日後に我が家に連れて来てくれることが決まったと連絡を受けます。
一度預けると中々返してもらえないなどのインターネットの情報を見ていたので、特段診断書の提出などを求められなかったことに当時は驚きました。
後3日で娘が帰ってくる…。
久しぶりの再会に不安と希望が入り混じります。